シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

シュレディンガーのメンヘラ

かの有名な「シュレディンガーの猫」を文字った自分の造語だ


意味合いはこういったものとして考えている

果たしてこれを読んでいる読者は何者だろうか?
あるいはメンヘラかもしれない、あるいは障害者かもしれない
しかし、それは「あなた一人」で完結する要素だろうか?

何事も全て、観測されていなければその実態を証明できない
他者がいるからこそ、在るからこそ、自己の証明がされるのではないか
それと同時に、自身は多数の他者の証明になっているのではないか

我々は「猫」だ
観測されていなければ、何であるか証明できない
それと同時に、圧倒的他者からの圧力次第ではその実態と異なる要素を植え付けられる可能性すらある

誰も自己の存在を自己証明はできない

さて、今日のところはここまでにしておこう
文章を書くリハビリは、まだまだなようだ

灰色に刻まれるもの 2018前期

ちょうど今年度も折り返しを迎えたので、ちょっとした振り返りをやろうと思う
あまりにも色々とありすぎた半年であった

4月
控えめに言って「地獄」であった
4月前半は、鬱状態が酷く、生きた屍のような状態だった

元彼、これを仮にA氏としよう
A氏はそれこそ無限に金銭を要求してきていた
そしておそらく発達障害由来のパニックを頻発に起こしていながらも、その可能性を本人に伝えるとやはりパニックを起こし、「僕はそんなんじゃない!そんな訳が無い!」と物理的な被害も及んでしまうといった具合だった

この地点で自分のメンタルはほぼ崩壊しており、3月末に福祉事務所に相談に行くも、「未診断含む2人なら無理」との回答に余計追い詰められていた
そこで、思い出してしまったのだ

A氏が毎日のように、何度も何年間も言い続けた言葉を
「どうして男は体を売れないの?」「僕だったらそんなの気にせずやるのに」「僕が女だったらよかったのに」
悪いことに、自分がされている診断は「双極性障害」だ
それまで鬱状態が酷く、仕事もまともに向かうことすらできない状態のその反動だろうか
結局、躁転の影響ではあるが、自分は援交に手を出すという始末となった

それなりの罪悪感は当然あった
何せ法では許されていない行為だ
自分はA氏にはこれを打ち明けないつもりだった
しかし、「なんでいきなりこんな大金を?」との疑問をぶつけられる
そこで自分は正直に打ち明けた
援交を2回やったという事を
そこでA氏から放たれた言葉はこうであった
「わー!てことは僕今まで2万の女とタダでやってたんだー!」
燦々としたその目と対照的に、その言葉に自分は打ちのめされた
「今まで」だ?これまでの「きれいな思い出」さえも汚す言葉だぞ?

この言葉がきっかけで、仮にB氏とする、援交の時に知り合った人間に再びコンタクトを取っていたのは別の話

援交堕ちしたからといって、それでも自分は守るべきものは守っていた
所謂、「体を売っても心は売らない」というやつだ
自分はその「心」の定義を「くちびる 」としていた
だから、やるにしても口に触れる行為はNG、という条件でやっていたのだ

しかし、援交は違法行為であるということに気付き、自分なりの罪滅ぼしの為に職場には一時退職を申し出て、それからはオナクラやマッサージ系の風俗の面接を受け続ける事になった
結果は当然、「ヘルスなら」との言葉ばかり
やはりハードでない店舗では顔が全てなのだ
自分は決して美人ではなく、むしろ不細工の部類である
何もかもヤケになって、自宅最寄り駅にある寂れたマッサージ系風俗に応募したら、そこは通ったのだ

5月
初めての風俗での勤務は平穏に終わった
しかし5月4日、事件が起こる
いつも通りのA氏のパニック
これが酷い時は警察を呼ぶのがきまりだ
しかし、この日ばかりは訳が違った
「警察を呼ばれる」とA氏が気付き、追いかけてきた上で首を締められた
なるほど、人は首を締められるとこうも高い音が出るのか、と変に感心をしていた

その手が離されてからは必死になって窓を開け、ただひたすら「助けて」と叫び続けた
しかし、それに反応するものはなかった
結局、その日は警察は来ずに終わった
その時、複数の靭帯を損傷してしまった
これにより、風俗は辞めざるをえない状況になり、金銭の最後の砦と考えていたものも崩れ去ってしまった

そんな中でとある知らせが届いた
友人が人を殺したと、そして殺されたのもまた自分の友人であると
これに関して語りたい事は尽きないが、あまり多くは語らない方がいい案件なのでこれで終わりとする

正直限界だった
そこで思い出すのはB氏の存在だった
B氏は元々は援交の相手であったが、自分の抱えるものに気付き、「おれさ、こんな事言える立場じゃないってわかってるけど、君にはこういう事して欲しくないよ」という言葉をかけてくれた
そこから先は感情の濁流、己の身に起きていることを全て話した
その間B氏は「うんうん、よくがんばったよ」とひたすら慰めてくれていた
この感覚は知らない感覚だと
誰かから慰められるというのはこんな感じなのかと
こんなにも涙を流したのはいつぶりかと
もうこの地点で、自分の心はA氏からB氏に移り変わっていたのだろう
その証拠に、5月中旬にまたB氏と会い、そこで唇を許してしまったから

そしてA氏から催促される「25日までに20万用意して」との催促
クレジットカードの引き落としがその金額らしい
A氏はこういった事をきちんと知らせない
いつも直前に催促し、総合金額を聞いても一言も答えないどころかパニックを起こす

5月25日、とうとうこの日を迎えてしまった
B氏とは相変わらず連絡を取り続けている
しかしそれに対する罪悪感も、「助ける」と約束したのにそれができない罪悪感も何もかもでいっぱいになり、A氏が帰宅する前に家を飛び出し、結局深夜徘徊でお巡りさんに保護されるという顛末となった

当然、過去の記録は残っているのでA氏に連絡は行く
そして「これからはきしたに家に入らない」という約束をする事になったが、その約束はすぐに破られた
5月26日、自分はただそこに「在る」だけのモノと化していた
そこに連打されるチャイム、鍵を開けてバーロックが引っ掛かる音、A氏の帰宅しようとする音ばかりが響く
そして送られる怒涛のLINE
結局深夜になるまで、それは続いた
5月27日、とうとうA氏が警察を呼んだ
自分はその時「もうどうにでもなれ」と家に残っているありったけの薬を全て飲んだ
そしてそのまま救急車も呼ばれ、警察はA氏から自宅の合鍵を回収してくれた

6月
どうしてもA氏が荷物を取りたいということで、6月1日だけ自宅に入るのを許可した
これを許さなければ何をされるかわからないから
そして、荷物をなんとかし、ここでA氏との関係は終わった
結局6年半の交際期間だった
信頼が崩れると、こうもあっけなく終わってしまうのか、という感じだった

そして友人、C氏とする、この人物の恋人が浮気をしているという疑惑があり、まさかの現場遭遇という事態に陥り、瞬時に躁転してしまいそこに突入し修羅場を作成してしまうという事もあった

それからは、酷い鬱状態と戦いながらも部屋を片付けたり、福祉事務所へ行って何とか生きる術を見つけ、1人平穏に日々を過ごしていた

ある日、B氏と連絡をしていた際、思わず口走ってしまった
「あなたの事が好きです」と
するとB氏からも同様の返事が来た
結局それから、自分とB氏は付き合うことになった

7月
7月は特にこれと言って何かが起きた訳では無い
ただただ、生きる上で必要な事の下地を作っていた

8月
8月も特にこれといって自分自身に起きたトラブルは無く、再びC氏より「浮気またされてるかもしれない」という相談を持ちかけられた
結果的には二人とも満足できるだろう形に落ち着いた

9月
9月もこれと言って何も無い
強いていえば、躁の具合が酷く、散財してしまい生活が苦しかった事ぐらいだろうか
自分が呼んだからというのもあるが、C氏がよく泊まりに来ていた


以上、こんな感じだろうか
4月、5月に色々とありすぎたが、今年度後期は平穏な日々であって欲しい

曖昧で確実なもの 2

さてまた今回も何かの「定義」についてゆるく語ろうと思う
前回の文中にも登場したが、今回問いたいのは「神とは何か」だ

「神」はしばしば全知全能の存在として扱われる
が、それが「唯一神」であるか「複数神」であるかはその人間によって揺らぎが発生する
そもそも、それ以前に「全知全能ではない」という扱いすら存在する

しかし何故か我々は「神」という曖昧なワードで、相互理解をする事ができる
ニュアンスとして言いたいことは伝わるのだ
それぞれの持つ「意味」は違っても、コミュニケーションは完成されるのだ

曖昧で確実なもの、それは言葉
言葉の意味は各々違うものを持つ
しかし皆が皆「共通認識」と錯覚することにより、曖昧さは確実性を持ち、はっきりしたものへと変貌していく

神とは一体なんだろうか
自分は無神論者なので、一個体としての神の存在は否定する立場だ
だがもし、神の定義を「不可解で完全なもの」とするのであれば、そこに当てはまるのは「言葉」であると、自分は思う

確実で曖昧なもの 1

しばらくの間躁転が激しく、まともに文章を書けない状態にあった
今回は比較的軽めの話題でそのリハビリがてらつらつらと書いていこうと思う

本題だ
「愛」とは何だろうか?

言葉というものは、だいたいの意味は共通しているものの、解釈するニュアンスは個々人で異なっている
そんな「言葉」を用いて行われるコミュニケーションは、とんでもなく繊細で絶妙なバランスを保たれているからこそ、成立する
しかし、「それ」への解釈が人によって大きく異なり、それでいて「己の解釈こそ社会の解釈と同じである」という錯覚に陥りやすい概念として、「神」と「愛」があると自分は考えている
この二つについて人間が論ずる時、お互いがお互い「自分こそ正しい認識」という前提条件の元で話し合ってしまう為、話が噛み合わずにズレが生じてしまう

ならば愛とは何だ?
言葉だろうか
性だろうか
金だろうか
施しだろうか

その答えを自分は持たない
あくまで自分が知りうるのは「自分の中での『愛』の定義」であり、他者の「愛の定義」は知る由もないのだ

よくあるカップルのすれ違いとして、「○○がちゃんと愛してくれないから」などというものがあるが、例えば片方の愛の定義が「言葉」で、もう片方の定義が「性」だった場合、その認識のズレを認識しない限りは「お互いに満たされない」状態になってしまうのだ
当たり前と言えば当たり前である
言葉を求める相手にひたすら性愛を向けても言葉にはならず、性愛を求める相手に言葉をかけ続けてもそれは性愛とはならない
まずそもそも、「愛とは何か」という擦り合わせが必要なのだ

と、ここまでつらつらと語ったが、実の所自分の愛の定義もまだ曖昧なのだ
今回は数個「定義としてありうるもの」を挙げてみたが、これ以外のどれかである可能性も十分にあるのだ

さて、あなたにとっての「愛」は、一体何だろうか?

決別の備忘録

これは、再起の第一歩である


とうとう、彼と別れた
いや、この表記は適切ではない
「名実共に、明確に、双方共通の認識の上で関係を解消させた」がおそらく最も適切だ

そもそも、この関係自体、非常に曖昧なものであったのだ
最後の2年程は「彼女が欲しい」と言われる日々が続いていた
情緒不安定になればすぐに勝手に別れを告げ、寂しくなった頃に戻ってくる
最初は自分も動じていたが、繰り返すうちに慣れていってしまった

思えば長いものだ、結局、7年と6ヶ月だ
単に友人だった時期も含めるのなら8年以上だ
これだけの密度でこれだけ接し続けるような人間関係は、他に類を見ない

しかしながらその期間のうちに双方の認知の歪みは着実に蓄積し、そして関係性の不健全さに加速がかかっていった
そして最終的には、いくら躁の影響を受けていたとはいえ、己を反社会的行為に走らせるに至った

互いしか見えぬ世界は、没入感こそあれど、互いを溺れさせ、そして死に至る

おそらく、互いに完全に忘れ去ることは不可能だ
形こそ定まらずとも、この事実は双方に深い傷として残り続ける
正直言ってしまえば、本来二人とも、現在のようにここまで酷く現実が見えなくなる程頭が悪い人間ではなかったのだ
初期に二人の世界に閉じこもってしまった
己らの家庭の異常に早期段階で気付けなかった
致命的な敗因はこの二点だ

ならば、現在により近いところではどうだろうか
おそらく、この関係でなければ気づく事はできたのだろう
正常な判断を下すには、あまりに長い期間一緒にい過ぎたのだ

これからは、己が為に生きていく
他でもない、己自身の幸福を見つける為に
他者に依存しない幸福を見つける為に

感情、その先にあるものは

感情

多かれ少なかれ、誰もが必ずしも持つもの
しかしその全貌はまるで不明で、他者の感情ならいざ知らず、己の感情ですら、その全てを把握し、理解する事は困難を極める

そして、他者の感情を読み取る場合、必ず「相手の感情の自己理解」から始まり、「相手の感情表現」が行われ、そこから「表現されたものから感情を読み取る」というプロセスが行われる
普段、我々が見ているものは、何度も何度もフィルターに通され、もしかすると最初の本来のものとは全く別のものなのかもしれない

しかしながら、コミュニケーションにおいても、人間関係を構築するにおいても、この感情表現と感情理解は必須だ
もしかすると、人間関係とは、「感情の読み合いをどのくらい整合性を保てた状態で維持できるかどうか」なのではないだろうか
両者の間で整合性が保てているなら、それは必ずしも正しい事である必要は無い
いわゆるアンジャッシュ状態のような、それでも一応「整合性」は存在できる

約ここ1ヶ月、自分にとって、人生で最も怒涛の流れが発生していると言える状態だ
これがまだ続くのか、それともこれで一旦落ち着くのか、だがいずれにせよ解決させなければいけない事柄は山積みだ
その中で、気付いたのだ
「これは、かつてない程に『人間の感情』に触れている期間だ」と

これは完全に自分の思考整理の為の散文だ
自己の感情をはっきりさせる為、こうして文章化しアウトプットし、自己理解を深める
だから、言ってしまえばこれも一つの感情表現の形だ
ここから自分以外の人間が正しい情報を読み取る責任なんて無いし、もしかすると己ですらミスリードに嵌るかもしれない

「自分は彼が好きだ、最愛の人だ、絶対的な存在だ、彼さえいればどうなってもいい、この人とずっと一緒にいられるならば、絶対に離れたくないし離れさせない」
これはずっと、自身の中で、「絶対に揺らがないだろう」と思っていた、言ってしまえば「人生においての絶対的な規範」の一つだった
ただ、今改めてこの状況に陥ってみて、これが本当なのかどうかわからなくなった

「感情において、自己催眠をかけていたのではないか」

少々気分のよろしくない話にはなるが、自身の心も体も絶対的に彼のものであり、彼以外には触れさせない
そんな風に考えていた
常日頃から自分のアカウントを見ている人ならば知っていると思うが、自分達は非常にお金に困っている
特に彼からの金銭の要求が激しいことが原因だ
彼はしょっちゅう言っていたのだ

「どうして男は体を売れないの?」
「僕が女だったら間違いなくそうするのに」

正直言って、彼との関係は良好とは言えなかった
彼の抱える精神病から来るパニックや暴走、にも関わらず肉親からの洗脳による過剰なまでの通院拒否、そしてそれらから招かれる希死念慮、そして結果として散財が誘発される
説明が面倒な関係なので、名目上は「恋人」ということにしていたが、恋人であるかどうかなど、もう2年以上不透明な状態になっている

それでも、一緒にいれればいいと思っていた
「自分の好きという気持ちでやってる事で彼が助かるなら、それならお互いいい事しかないじゃん」、と
どこかで、彼がまだ自分に対して何か特別な感情を抱いてくれていると期待していた部分はあったのだろう
求めるものを渡せば、望み通り動けば、そうしたらまた振り向いてくれるのではないか、昔のような仲に戻れるのではないか、と

常日頃から彼はいわゆる「構ってちゃん」的な言動が多い
して欲しいことをはっきり言わず、あくまでこちらからそれをするように誘導する
細かいもので例を挙げるなら、「コンビニ行ってきてもいいんだよ?」等と言われた時は、これは彼が買ってきて欲しいものがあると思っている時だ

「金銭に余裕が無い」
「『体を売る』という事に言及する頻度が増えた」
ここで自分は考えてしまった、「彼、もしかしてこれを自分にやって欲しいの?」
まだ付き合いたての頃、と言うよりかは最初の3年程だ、「はるかは僕のもの、僕だけのものだよ、だから他人になんて渡さないし、裸も見せたくないからできれば温泉とかプールは行かないでほしいな」等と言うような人物だった
だからその時「それを守る」という約束をしたし、自分もその約束を破るつもりは無かった
だが今自分が迷っていることは、この「最初の頃の約束」を破る、自分の想いの根本を揺るがすようなとんでもない事態な訳だ
結果的に、その時若干の躁状態に入っていた影響もあるだろうが、手っ取り早い手段として「援交」に手を出した訳だ

目標金額を集め、彼に渡した所で我に返る
「なんて事をしてしまったんだ、なんて裏切りなんだ」
それから数日間、罪悪感に苛まれ、何も出来ず、しかしながらこれを放置はしたくないと考え、これを彼に打ち明けた
少しぐらい、彼がショックを受けるのを期待していた
ショックを受けてくれるって事は、まだ自分の事を想ってくれるという事だから
しかし返ってきた答えはこれだ
「やればできるんだね」

体を売るという話題になった時、時折自分は聞いていたのだ、「そうして欲しいの?」と
しかし返答は決まってこう、「どうせできないでしょ」
彼の意思は全く不明なのだ
だから自分はこう都合よく解釈した、「彼の為ならなんでも出来るって、それを証明して欲しくて試してるのかな」、と

何かが崩れる気がした
あるいは自己催眠が解けただけなのかもしれない
ただ間違いなく、「自分が彼に抱いていた幻想」は、彼の手によって打ち砕かれた

揺るぎないと思っていた感情が崩れた時、あるいは全く知らなかった世界に足を踏み入れた時、人間はキャパシティオーバーを起こすのではないか
とめどなく溢れ出る感情に、理解も表現も追いつかなくなる
援交に関しても、父親がそれに等しい行為をしていたから、自分の中では「許されざる行為」に分類される事だ
なのに、何故だか「おもしろい」という感情が湧いてきた
元々好奇心旺盛な部分はある
だが状況はこれだ、感情の処理が追いつかなかった結果、「根本的な部分が発露してしまった」とでも言えるだろうか

それからはもう、どうでもよくなった
元々この人生は彼に捧げるつもりだった
彼の発言を聞いて、その表情を見て確信してしまった、「いつか捨てられる、ずっと一緒にいるのは不可能だ」、と

「なら彼の人生をちょっとでもマシにする消耗品になろうじゃないか」

好きだった仕事を辞めた
やりたかった夢を諦めた
一応援交は法的にも不味いことを知ったのでそれはやめた
そして自分はお金の為に、彼に渡す為だけに、風俗で働くことにした
役者や声優になりたかったが、一度この風俗の世界に踏み込んでしまえばもうそれを叶えることは不可能だろう
世の中、ギャラリーがそれを許さないことは想像に難くない

ここまでわけもわからず突っ走ってしまった
そして今、改めて現実を見直すターニングポイントに立っている
これまでずっと、真面目で頼りになる、みんなを支える、そんな人間として生きてきたのだ

今の自分は、どうだ?

「あーあ、こんなんなっちゃったかぁ」
呆れというか、あまりに滑稽であるというか、悟ってしまうというか、これを正しく表現する手段を自分は持たない
だが確実に一つ言えるのだ、「すごく笑えてくる」と

「深刻な事態であるにも関わらず笑う」という行為は、大抵の場合、というか殆どの人が悪い印象を持つ
だが、その深層に潜むものは、決して他者にわかりはしないし、ひょっとしたら本人ですらわかってないかもしれない

表面的に見えてるものだけで判断するのは、あまりにリスクが大きい
だが自分は、それを解決する手段を知らない
強いていえば、「外野であるならば余計な口を出すな」だろうか
しかし人間が生物である以上、野次馬根性を持つ生き物である以上、きっとそれを実現するのは不可能に近い

人間は、思っているよりも、人間の感情をコントロールできない

その井戸はどんな井戸か?

井の中の蛙大海を知らず」
こういったことわざがある
意味するところはこういったものだ

http://kotowaza-allguide.com/i/inonakanokawazu.html

そしてどうやら、このような続きがあるという説もあるらしい

「されど空の深さ(青さ)を知る」

究極的に言ってしまえば、言葉なんてものは大半は大昔に作られたものであり、そして当時の感覚で決められている
だからこそ、いわゆる「言葉狩り」のような、「これじゃあまるで〇〇じゃないか!こう表記するのはやめよう!」なんて行動が、その言葉ができてから何十年何百年と経ち、文化も文明も大きく変わった現代ではよく見られるようになるのだ

さて、今日はこの言葉について語りたい
何日か前、実はこの話題に少し触れている


これだけだとなんのこっちゃという話だが、一つ一つ分解していく

まず「井の中の蛙」と一括りにしているが、それは本当に正しい分類か?
そもそも「井戸にも種類がある」だろう
大きな井戸、小さな井戸
屋根のある井戸、屋根のない井戸
蓋のある井戸、蓋のない井戸
ここで「されど空の深さ(青さ)を知る」は続きとしては不完全なものであると自分は言いたい
「屋根のある井戸でどうやって空を見ようっていうんだ?」

さてここで井戸在住のかえるさんとお話した場合、どんな事が発生しますかね
まずはこう聞いてみましょうか
「あなたは『空』を知っていますか?」
はい、ここで『空』という概念を知っているかえるさん、知らないかえるさんといったふうに差が発生します
そして知らないかえるさん、「そら、って何ですか?」質問がされるでしょう
そしてこう答えたとしましょうか、「ずーっとずーっと上の方に広がってる青い所の事ですよ。雨が降ってくるところです」と
ここでまた2つ差が発生します
まず、「青い」という概念を知っているか否か
そして「雨」という概念を知ってるか否か
「青い」を知らなかったかえるさん、それに対し「井戸から上に見える広がってる所の色を『青い』って言うんですよ」と回答された場合
屋根のない井戸在住のかえるさんなら問題無いでしょう
しかし、屋根のある井戸在住のかえるさん、おそらく彼らは「井戸の天井の色」、つまり黒やら灰色やら茶色やら、おそらくそういった色の事を『青い』と誤認します
屋根の大小もあるでしょう、内部から覗いた場合、空が見えない程度には大きな屋根のある井戸、ある程度は空も見ることのできる屋根のある井戸等、ここでも差が発生するでしょう
そして『雨』に関しても同じことが言えるでしょう
「空から降ってくる水の事だよ」と説明されたとする
そもそも屋根のある井戸在住のかえるさんは「なんだそれ?そんなものあるか?」とそれそのものを理解できないかもしれないし、なんならたまに降りてくる水汲みバケツの事を『雨』と誤認する可能性もあるだろう
そして、そもそも根本的な疑問がある

「それ、本当に井戸?」

例えば極端に地面との段差が激しい池、このような場所でも井戸と同じように、「外の世界に触れる事ができない」という状況は発生しうる
そして他には「周囲の茂みがやたら濃い池」、または同じような「沼」
なんならご家庭の水槽や虫かごだって、「外に触れる事ができない環境」といった点では井戸と同一だ
そんな所に「井の中の蛙」のような、「外と接点の無いかえるさんは井戸に住んでるかえるさん」という概念が持ち込まれれば、大抵のかえるさんは「そうか、自分は外との接点がない、ってことは井戸に住んでるんだ」といった認識をするだろう

さてこんなかえるさん、インターネット上では沢山見ることができる
自身を「とある属性」であると自負し、そしてその持論をまるで「その属性共通の認識」であるかのように発信する
そして「とある属性」の保持者ではあるが、その持論と同一の理論を持たない者により炎上へのレールが用意される
かえるさんで例えるとすれば、「井戸生活は夏の日照りが辛いんです!井戸に住まない人もそれを考えてください!」と発したとして、それに対し「何言ってるの、日照りなんて一年中辛いでしょ」「いや日照りとか何言ってるの?そんなの無いし」「いや発信者の言うことが正しい。頭おかしい外野多すぎ」等、どんどん場が混沌としてくる
実際、ここには「屋根がある」「森等遮光物がある」「近くに大きな熱源がある(温泉等)」といったふうに、その主張の原因となりうる異なった要素が存在するのだが
それがこのツイートに繋がる

最近、本当にこの「井戸在住」といったような要素、皆が「共通の意味を有している」と信じて疑わない属性、単語だが、その実それの意味は個人個人でバラバラであるといった要素が原因のあれやそれを多く見るようになった
これも「本当に増えている」のか、それとも「多く見る環境が整っただけ」なのかは、自分には判断がつかない

誰もが皆、かえるさんなのだ
あなたは「己の井戸のみが正義と信ずるかえるさん」にはなっていないかな?