シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

怨嗟

頭から文字が溢れて止まらない。

 

何時間も外で待たされた後、ようやく家に入れて最初に目に入った光景はただただ「酷い」と評価する外なかった。

ぐちゃぐちゃに丸められた重要書類。見つからない貴重品。普段から散漫としている我が家だが、それはそれなりに秩序は保たれており、何がどこにあるかはほとんどわかる。

だがそれを根底からひっくり返す「人が暴れた痕跡」は、その秩序さえどこかに弾き飛ばしてしまっていた。

 

どうしてこうなってしまったのか。どうしてここまでなってしまったのか。二回目である被殺人行為は、目の前に警察官がいたにも関わらず、「家庭内のトラブル」と盾になかったことにされた。一度目は人の目がない密室にて行われた絞殺。今回は大勢の目撃者がいた。もちろんその中には警察官も多く含まれる。なるほど、この国の権力は相手の属性で現行犯逮捕もできなくなるらしい。

「人が死ななきゃ誰も動かない。」

そう言えば「何を訳の分からない事を言ってるんだ。」と警察官が返す。実際今の光景がそうでしょう。首を絞められた時、あの時周囲の人間による引きはがしが遅れるか、一撃必殺で頸椎を折ることができていればあの場で自分は死んでいた。死ねばきっと警察も動いてただろう。だからなんだよ。「人が死なないと警察は動かない」

 

もう限界だ、限界だ、何をすることもできない。薬を飲んで寝ようにも、一向に効く気配は無い。もう三時間以上経っているのに。

 

結局のところこの世に救済は無い。こんな愚かな生き物である人間が跋扈している以上は。

 

警察学校は厳しいところだ。それ故実家が太い人間でもない限り卒業まで耐え抜くのは難しいだろう。だから彼らにはわからない。生まれた時より地獄にいた我々の世界がわからない。

 

「何もしないなら野宿するしかない。野宿なんて辛い事ないよ。」いいえ、少なくとも野宿は家にいる時より、学校にいる時より、ずっと安心できる環境でした。

 

「刑務所の方がいいなんて言うけどあんなのただの強制労働施設で実際は辛いもんなんだよ。」いいえ、刑務所はきちんと定時がありますよね。間違っても月間480時間労働なんてことにはならない。それに食事も寝るところも雨風を凌ぐ住処だってある。明日の生活がどうなるかわからない、お金が無いから三か月米以外を口にできない、14円で二週間を過ごす。そういう馬鹿みたいな苦行は刑務所では発生しない。だから今の生活よりずっと安定してるのだ。いいや、「これまで生きてきた中で最も安定した生活を送れる。」が最も適切な感想だ。

 

疲れ果てた。もう疲れた。自分の唯一にして最大の非は「我慢し続けたこと」

だけど我慢せず事実を伝えればいつも荒れた。結局その尻拭いをできる人間は自分しかいなかった。だから自分は我慢を始めた。そうでもしなきゃもう持たなかったから。でも結果としてそれは相手を増長させる形で終わった。つまり「我慢する」という選択は少なくとも「間違いであった」としか言えない。

ならば最適解はなんだ?わからない、わかっていたらこんな事にはなっていない。

 

もう我慢ができない。あれだけ我慢に我慢を重ねていたのに、今は一つの我慢すら成立しない。もう大丈夫だと思っていた過去の亡霊は、間違いなく今も存在し、そして自分を蝕み続けているという事を嫌になるぐらい実感した。

 

もう疲れた。もう何もしたくない。もうコミュニケーションが煩わしい。だけどしつこく聞いてくる。「何があったのか」と。

もうそれを語れるほどの余力は無い。今こうして頭の中から湧き出る文字を具現化する以外にできることはない。「外部の人間向けに言語フォーマットを変更する」その行為そのものがもう実行不可能だ。だからこの文章は読みやすさを一切廃絶し、ただただ書きやすいように書いている。

 

無理だ、疲れた、そんな説明をする余裕はない。それでも聞いてくる。突き放す。そうすれば「理解しようとするこっちの気持ちを踏みにじっているのか?」と返事が来る。正義と被害者ヅラはセットでやってくる。それを指摘する。「そんなつもりはない」そう弁解される。でも「気持ちを踏みにじる」という加害を行っているとこちらに警告した以上、「私は今あなたの加害の被害者です。」と表明してるも同然だろう。一瞬で引き起こされる矛盾。だが愚かな人間はこの自己矛盾を指摘されても気付くことなくこのまま自分の心をえぐりに来る。「寄り添い」「理解」どれもこれも耳ざわりのいい言葉。だけどやってることは野次馬根性の心理的マスターベーション。それだけ。

 

誰もいない、コミュニケーションの必要のない世界に行きたい。

 

もう疲れたよ、何もしたくない。

願わくば、このまま一人で終わらせたい。

狭窄と傲慢

ああ、なんて自分は傲慢なのだろう。

約2年放置していたブログをこうしてまた触っているのは、Twitterという140字に縛られた世界では到底この心は語り得ぬと考えたからだ。

医療的視点から見れば自分の状態は最悪だろう。
ただでさえ思考過多であるにも関わらず、躁転時に拍車がかかるそれ。
そして抑鬱状態の時に見られるこの世の全てへの呪詛。その呪詛の対象にはもれなく「己」も含まれる。だからこそ、だからこそ全てぶち壊して一緒にこの世から退場したくなるのだ。

客観的な視点から話を変えよう。自分が今話したいのはこんな話ではない。

最悪な状態の自分はまさに「最悪」という表現がお似合いだ。
だがこれは常に抱えてる心の1つであり、この事実が否定される瞬間は一瞬たりとも存在しない。
自分は全ての人間を見下している。「全て」という辺り、妙に平等なのが気持ちが悪い。

「どうしてその程度の事がわからないのか」

幼少期よりずっと心の中で繰り返された言葉。
はっきりと覚えている、初めてこの感情を抱いた対象は母親だった。2歳の時の出来事である。

その日は母親が料理をするのが辛いと言い、宅配で寿司を頼んだ。
自分には子供用のメニューが与えられた。そこまではよくある話。おかしな所は存在しない。
だが、自分が親達が食べているものに興味を示した時、母親はそれを自分に食べさせた。
今の時代はわさびは別添えが当たり前になっているが、23年前はそんな時代ではなかった。
初めて食べるわさびはこの世のものとは思えぬ刺激を2歳児の舌に与え、泣きながら吐いたのをよく覚えている。
その時の母親の一言はこうだった。
「あ〜やっぱりあんたにはわさびは早かったか〜。」
その時に初めて思った。
「大人に耐えられる刺激を子供が耐えられる訳無いだろう、どうして食べさせたのか?諌められればそれ以上求める事は無かったのに。」
その後も3歳になるまでコーヒー、唐辛子、マスタード、タバスコ、これらの物で同じことを繰り返した。

今思えばこんなのは些事である。
今抱えてる苛立ちと比較すれば、こんなのもう少し自分が知識をつけていればよかっただけの話。

「何故」「どうして」「この程度の事が」

責め続ける。わからぬ彼らを責め続ける。その程度の人間としか付き合えぬ己を責める。

「自分が思っている程、人間は賢い生き物ではない」

わかっている、そんなのわかっている。でも賢くないからこそ、この苛立ちを止められない。

話がずれる。
普段の自分は「自惚れるな」と言われるかもしれないが、人当たりがいい方だと言われる。
でもそのからくりは簡単なのだ。
「平等に人を見下してるから」
真実は時として残酷だ。

だから「普段の自分」なら大丈夫なのだ。
「人間なんてそんなもん」そう思えるから。
「わからなくても仕方ない」「わからないなら教えればいい」
ただそれだけの事。ただそれだけの事なのに、今の自分にはそれができない。

究極に言ってしまうと人を慮る事ができなくなるのだ。
だからその口から漏れるは呪詛ばかりになる。
「何故できない」「何故わからない」

最初は純然たる興味だったかもしれない。
「どうして人間にはこんなに能力差があるのか」
だけどそれを歪めてしまったものはわかっている
100点を取れなかった時に「どうしてあと1点が取れなかったの」そう責められ続けたから。

それに耐えることができず歪んでしまった自分が腹立たしい。どうして受け流すことができなかったのか。

この人生において、きっと真の意味で人を信じることができたことはない。
そして誰かを尊敬できた事もない。

うっかり他人に対して今の自分の心を漏らしてしまった。
なにも出来ないくせに率先して物事をやりたがる者を「無能な働き者」と思っているという事を。
そしてその言葉に対して痛烈な批判を受けた。「悪いのは全てあなたである」そういった評価も受けた。

だが仕方ないのだ。自分から見ればそれは紛れもない事実である。
自分が「無能な働き者」と評した人間は実際、問題解決能力に欠けている。
自分が今他人を慮ることができない状態である事は伝えた。その上で言葉を選べなくなっていると。

相手方はこう勘違いした。
「病状の悪化により攻撃的になっている。」と。
事実は違う。現実問題として本当にその人間は能力が低い。
普段の自分がそんな事を言わないのは「我慢できているから」
事実は変わらない。

どうしてわからない。どうしてできない?
同じ人間のはずなのに、自分が「教える」必要がある人間がこんなにも大量に存在するのは…いや、「そうである人間がほとんど」であるのはどうして?疑う事を知らぬのはどうして?

その「教え」が必要な人々も、結局「教えてもらう」用が済むか、「都合が悪くなった」途端に自分という人間を切り捨てる。
その理由が「事実から目を逸らしたい」からなのか、「最悪でしかない自分という人間に愛想を尽かしたから」なのか、理由はわからない。

ただただ、人は愚かな選択をし続ける。
「普通に考えたら悪手であるとわかること」を選び続ける。

自分はいつまでそんな人間達の介護をすればいいのだろうか。
自分はどうしてそんな不完全な人間に生まれたのだろうか。

腹立たしい。苛立ちが止まらない。
やはり人間は無能だ。支配者面した道化でしかない。
真実を伝えれば「考え過ぎ」だと言う。
「考えない」瞬間が存在するというのが自分からすれば「考えられない」。
思考とは常に流れているものであり、それは睡眠中であろうとも関係ない。心臓が止まらないのと同じように、生きている限り脳は動く、故に思考は止まらない。

「何も考えずにリラックスしなよ」「いらない知識は忘れようよ」
人間が生き物である限り前者は不可能である。
時間が戻らないのと同じように、記憶は脳に刻まれたならばその刻印が消えることはない。何らかの要因によりその刻印が曇らされる事はあるかもしれないが、今の自分はそんな状態ではない。

ああ、だからこそ、だからこそなのだ。
「どうしてこの程度の事もできないの?」
普通の人間ならばできるこの2つが、自分には不可能だから。

自分がこんな自分である限り、人間を滅したい気持ちと己を消し去りたい気持ちは存在し続けるのだ。
「どうしてその程度の事もできないの?」という呪詛と共に。

共通認識の罠

「こんな不完全な世界を作るなんて、神はどうかしている」
「こんな世界を作るなんて神は不完全だ」
「本当に神が万能ならこんな苦しみは無かったはずだ」

ちょくちょく耳にする言説である。
ここから述べることは以前に述べた事と重複するかもしれないという事を先に宣言しておきたい。

自分は無神論者だ。
故に神も輪廻転生も信じてはいない。
たまにメンタルケアの為にその類に頼ってしまうこともあるが、そもそも「神」「オカルト」等といった類は人間の精神安定の為に作られたフィクションであると考えている。
例えば「葬式」だ。
あれは死者を送り出す為の儀式ではなく、生者を「納得させる為」の儀式であると自分は考えている。
話を戻そう。
先に述べた神への嘆き、その全てにこれが見え隠れしていないだろうか。
「神は万能である」という前提条件が。
自分はこれに疑問符を持たざるを得ない。
人間という生き物は不完全な生き物だ。だから完全を求めるその心理はわかるのだ。
だがしかし、「完全」を知らぬ「不完全」な生き物が例え空想であっても「完全」を創り出す事は可能だろうか?
自分の答えはNoだ。
何故なら、人間は己に想定可能な事柄までしか空想する事ができないからである。
「困った時の神頼み」なんて慣用句もあるが、それこそ「神は万能である」という共通認識とおもわれているそれからきているものだ。

わかりやすく、日常レベルまでこの話を落としてみよう。
例えば電車だ。自分は「電車内での飲食は厳禁(ただし新幹線等特殊車両は除く)」という考えを「社会的な共通認識」だと考えている。
そして実際問題ほぼ全ての人間はそう考えているのではないだろうか。
実際、混雑する電車内で食品を貪る人間を見つけた時、だいたいの人間は眉をひそめてその人間に視線だけで「わかってるだろ」というようなリアクションをするのみである。決して口に出して注意をしようという者はいない。
そしてそのままその人物の評価は「どうかしている人間」と、何の意思疎通も無しに決定されてしまうのだ。
たとえその人間が上京してきたばかりで地元では車内飲食OKの地域から越してきた人間であったとしても、だ。

共通認識というのは恐ろしい。
共通認識、言い方を変えようか。
「普通」「常識」というものは恐ろしい。
皆似たり寄ったりの考えを持っているのではあろうが、その全てが一致することなく社会的流動的に様々なあれやこれやが決定されてしまう。
あなたの「常識」は他者の「常識」と合致するだろうか?
あなたの「普通」は本当に「普通」だろうか?
考えてみればきりがない。

ただ一つ言えること、それは「共通認識には罠がある」これだけである。

文を通わす

「文通」
現代となってはほぼ使われないコミュニケーションツールであるが、実は自分は昨年11月から友人と文通をしているものなのだ。
訳を話すと少々長くなるが、簡単に言えば、罪を犯してしまった友人と拘置所、あるいは刑務所宛で文通をしている。
単にその友人との連絡手段がそれしかないのだ。
しかし文通というものは奥が深い、なかなかに面白いものである。
例えば文字の書かれ方1つ、大きさ、乱れ方、そこから文字としての情報だけでなく感情まで伝わってくるのだ。
それは届いた文を読むこちらだけに生じるものではなく、もちろん相手もその情報を得ることができる。
文字を書くということ、デジタルツールがこれだけ普及したこの世では学生でもない限り、社会に出てしまえばその機会はほぼ失ってしまう。
しかし、書く事で、自分自身を見つめ直す事もできる。
例えばこのブログはスマートフォンで入力しているが、同じ文章を文字で書いたらおそらくは脳内で全く違った処理が成されると思うのだ。
文字を書くのは脳にいい刺激になるのではないか、と思えて仕方ないのだ。

さて、友人との話はこれまでとして、今現在、自分は一人暮らしではなく同居人がいる状態になっている。
彼氏が実家にとてもいられる状態ではなく、それを引き取ってきた、という形だ。
かつて我が身に起きたあれこれを知る人間からすれば「本当に大丈夫か?」と心配されるかもしれないが、今のところ、その心配は無さそうだ。
むしろお互いにお互いの病、障害を理解し、少々病院嫌いの所はあるが、今もドクターストップを素直に受け入れ、大人しくしている。
さて、そんなお互いにドクターストップを受けている状態で、自分はこんな提案をしたのだ。
「交換日記をしてみない?」
お互いに様々な過去を抱えている。
その話はお互いに知っている。
だがそれはたいていは通話で話されたものだったり、LINEの文章上で話されたものだったり、実際に2人で会話したものであったり、「ぱっと取り出すことのできない所」にその情報はあるのだ。
それをノートに書けば、パラパラとめくるだけでそれを見返す事ができる。
お互いに人間不信、嘘は嫌い、ならば証拠を残そうではないか。
当然ドクターストップなので二人とも一日中家にいる。
そんな中で交換日記なんてする意味ある?と彼氏には問われたが、字を書く事、簡単にアーカイブとして読み返せる環境を作り出すこと、それこそに意味があると思う自分はこれを決行した。

友人が刑務所に行ってから返信が途絶えているが、自分は毎週手紙を送り続ける。
彼女が孤独を感じないように。
手書き文字でのコミュニケーションは、案外、楽しいものだ。

「生誕」に向けるべき祝辞

ありきたりな話をしよう
今日は自分の誕生日だ
今年で23歳となる
2月3日生まれの23歳という数字マニアからしたらとんでもなく面白い揃いの1年なので、何がしか面白い事が起きて欲しいなとの思いもある

さて、話を変えよう
よく「お誕生日おめでとう」の言葉に「生まれてきてくれてありがとう」などと追加する場合があるが、自分はこの事に疑問を抱いているのだ
まず一点、「生まれてきた」段階では自我の形成は成されていない
ということはつまり、「自分の意思で行われたものでは無い」と言える
そして「産んだ」のは母親だ
つまり、「生まれてきてくれてありがとう」は誕生日を迎えた本人への祝いの言葉と言うよりは、母親への賛辞の言葉としてのニュアンスが強いように思える

ならば自分はどう言葉を変えるか
簡単である
「ここまで生き延びてくれてありがとう」だ
惰性で生きている人間も決して少なくは無いが、少なくとも死へ向かう行為をしなかったか、あるいは失敗しているかによってその人物との繋がりが残っている訳であり、これは「本人によって成し遂げられたもの」であると言える
だからこそ、「誕生日おめでとう」の後に続くべきは、「ここまで生き延びてくれてありがとう」であるべきだ、と自分は思うのだ

もちろんこの他に「友達でいてくれてありがとう」だとか、本人の意思によって行なわれた行為への礼を足すのもいいだろう

さて、もうまもなく自分の誕生日は終わる
そしてそこから隙間すらなく、我が友の誕生日が始まるのだ
友への文は届くだろうか
今は会えぬ友への想いを馳せ、今日ここに我が誕生日への言及を終了しようと思う

死に至る魔女

「退屈は魔女を殺す」
うみねこのなく頃にという作品に登場した言葉だ
自分は魔女ではないが、まさに今退屈に殺されかけている、とも言える状態だ

思えば激しい躁転であった
毎日のようにゲーセンへ通い散財して帰ってくる
ゲーセンへ行かなかったとしても、百均で大金を使って帰ってくる
何もしていないと落ち着かない
そこへアカシジアの症状も追加
動いてないと死んでしまう、まさに回遊魚の如く騒がしく日々を過ごしていた

そこで唐突にやってきた鬱の症状
何かしていないと落ち着かないが、動く気力は起きない
朝の洗顔ができなくなり、肌がひどく荒れているのも鬱の兆候だ

躁鬱混合状態はまさに生き地獄だ
いや、地獄の方がまだ快適であるとも言えるかもしれない
行動に対して大きな自己矛盾を抱えているのだ
そしてそれはやり場のない焦燥感となり、己の精神を更に疲弊させる

人間は何かに耐えれるのは3ヶ月、という経験則が自分の中にはある
7月まではほぼ寝たきりだったが、今はそれよりはまだ幾分回復した
だからだろうか、退屈という感情が芽生えた
あるいはまだ躁が抜け切ってないのかもしれない
文章を紡ぐにしても、このぐちゃぐちゃな状態の脳みそでは散文的に発散していくしかない

今日は精神科の通院日だ
診察の結果はどうなるか
早く仕事に復帰したい限りだ

シュレディンガーのメンヘラ 2

先日の記事を読み直したところ、これっぽっちも本当に言いたいことが書かれておらず逆にびっくりしたのでこうして書き直す事とした

そもそも、「メンヘラ」の定義とは何だろうか?
それは恐らく人により判断基準の異なるものだろう

精神疾患を持っている人?
リストカットやODを日常的に行う人?
マイナス思考な人?
人生に悩んでいる人?
病みかわ愛好者の事?

自分に思いつくのはこれくらいだが、おそらく「人には人の数だけメンヘラの定義がある」のだろう
ちなみに自分の中での「メンヘラ」の定義は
「医師により正式に精神疾患を診断されている人」
である事を明言しておく
そしてこの定義を軸に論ずるならば自分は「メンヘラ」に該当する

しかし、だ
万人にそうなのだろうか?
自分は精神疾患こそ持っているが、自傷行為やOD等もさっぱりだし、服や化粧の好みもそういった系統ではない
世にはこれらの条件を満たさないと「メンヘラ」と呼ばない人も沢山いる
つまり、自分は観測者により「メンヘラ」か「メンヘラではない」か結果に揺らぎがあるのだ
さながらそう、シュレディンガーの猫のように、蓋を開けるまで、観測者により観測されるまで、その結果はわからない

自分はシュレディンガーのメンヘラだ
あなたは、自分をどう観測する?