シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

狭窄と傲慢

ああ、なんて自分は傲慢なのだろう。

約2年放置していたブログをこうしてまた触っているのは、Twitterという140字に縛られた世界では到底この心は語り得ぬと考えたからだ。

医療的視点から見れば自分の状態は最悪だろう。
ただでさえ思考過多であるにも関わらず、躁転時に拍車がかかるそれ。
そして抑鬱状態の時に見られるこの世の全てへの呪詛。その呪詛の対象にはもれなく「己」も含まれる。だからこそ、だからこそ全てぶち壊して一緒にこの世から退場したくなるのだ。

客観的な視点から話を変えよう。自分が今話したいのはこんな話ではない。

最悪な状態の自分はまさに「最悪」という表現がお似合いだ。
だがこれは常に抱えてる心の1つであり、この事実が否定される瞬間は一瞬たりとも存在しない。
自分は全ての人間を見下している。「全て」という辺り、妙に平等なのが気持ちが悪い。

「どうしてその程度の事がわからないのか」

幼少期よりずっと心の中で繰り返された言葉。
はっきりと覚えている、初めてこの感情を抱いた対象は母親だった。2歳の時の出来事である。

その日は母親が料理をするのが辛いと言い、宅配で寿司を頼んだ。
自分には子供用のメニューが与えられた。そこまではよくある話。おかしな所は存在しない。
だが、自分が親達が食べているものに興味を示した時、母親はそれを自分に食べさせた。
今の時代はわさびは別添えが当たり前になっているが、23年前はそんな時代ではなかった。
初めて食べるわさびはこの世のものとは思えぬ刺激を2歳児の舌に与え、泣きながら吐いたのをよく覚えている。
その時の母親の一言はこうだった。
「あ〜やっぱりあんたにはわさびは早かったか〜。」
その時に初めて思った。
「大人に耐えられる刺激を子供が耐えられる訳無いだろう、どうして食べさせたのか?諌められればそれ以上求める事は無かったのに。」
その後も3歳になるまでコーヒー、唐辛子、マスタード、タバスコ、これらの物で同じことを繰り返した。

今思えばこんなのは些事である。
今抱えてる苛立ちと比較すれば、こんなのもう少し自分が知識をつけていればよかっただけの話。

「何故」「どうして」「この程度の事が」

責め続ける。わからぬ彼らを責め続ける。その程度の人間としか付き合えぬ己を責める。

「自分が思っている程、人間は賢い生き物ではない」

わかっている、そんなのわかっている。でも賢くないからこそ、この苛立ちを止められない。

話がずれる。
普段の自分は「自惚れるな」と言われるかもしれないが、人当たりがいい方だと言われる。
でもそのからくりは簡単なのだ。
「平等に人を見下してるから」
真実は時として残酷だ。

だから「普段の自分」なら大丈夫なのだ。
「人間なんてそんなもん」そう思えるから。
「わからなくても仕方ない」「わからないなら教えればいい」
ただそれだけの事。ただそれだけの事なのに、今の自分にはそれができない。

究極に言ってしまうと人を慮る事ができなくなるのだ。
だからその口から漏れるは呪詛ばかりになる。
「何故できない」「何故わからない」

最初は純然たる興味だったかもしれない。
「どうして人間にはこんなに能力差があるのか」
だけどそれを歪めてしまったものはわかっている
100点を取れなかった時に「どうしてあと1点が取れなかったの」そう責められ続けたから。

それに耐えることができず歪んでしまった自分が腹立たしい。どうして受け流すことができなかったのか。

この人生において、きっと真の意味で人を信じることができたことはない。
そして誰かを尊敬できた事もない。

うっかり他人に対して今の自分の心を漏らしてしまった。
なにも出来ないくせに率先して物事をやりたがる者を「無能な働き者」と思っているという事を。
そしてその言葉に対して痛烈な批判を受けた。「悪いのは全てあなたである」そういった評価も受けた。

だが仕方ないのだ。自分から見ればそれは紛れもない事実である。
自分が「無能な働き者」と評した人間は実際、問題解決能力に欠けている。
自分が今他人を慮ることができない状態である事は伝えた。その上で言葉を選べなくなっていると。

相手方はこう勘違いした。
「病状の悪化により攻撃的になっている。」と。
事実は違う。現実問題として本当にその人間は能力が低い。
普段の自分がそんな事を言わないのは「我慢できているから」
事実は変わらない。

どうしてわからない。どうしてできない?
同じ人間のはずなのに、自分が「教える」必要がある人間がこんなにも大量に存在するのは…いや、「そうである人間がほとんど」であるのはどうして?疑う事を知らぬのはどうして?

その「教え」が必要な人々も、結局「教えてもらう」用が済むか、「都合が悪くなった」途端に自分という人間を切り捨てる。
その理由が「事実から目を逸らしたい」からなのか、「最悪でしかない自分という人間に愛想を尽かしたから」なのか、理由はわからない。

ただただ、人は愚かな選択をし続ける。
「普通に考えたら悪手であるとわかること」を選び続ける。

自分はいつまでそんな人間達の介護をすればいいのだろうか。
自分はどうしてそんな不完全な人間に生まれたのだろうか。

腹立たしい。苛立ちが止まらない。
やはり人間は無能だ。支配者面した道化でしかない。
真実を伝えれば「考え過ぎ」だと言う。
「考えない」瞬間が存在するというのが自分からすれば「考えられない」。
思考とは常に流れているものであり、それは睡眠中であろうとも関係ない。心臓が止まらないのと同じように、生きている限り脳は動く、故に思考は止まらない。

「何も考えずにリラックスしなよ」「いらない知識は忘れようよ」
人間が生き物である限り前者は不可能である。
時間が戻らないのと同じように、記憶は脳に刻まれたならばその刻印が消えることはない。何らかの要因によりその刻印が曇らされる事はあるかもしれないが、今の自分はそんな状態ではない。

ああ、だからこそ、だからこそなのだ。
「どうしてこの程度の事もできないの?」
普通の人間ならばできるこの2つが、自分には不可能だから。

自分がこんな自分である限り、人間を滅したい気持ちと己を消し去りたい気持ちは存在し続けるのだ。
「どうしてその程度の事もできないの?」という呪詛と共に。