シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

嘘をつかない≠真実を伝える

これはある意味懺悔も含まれているのかもしれない

「嘘をついてはいけない」
幼少期から散々聞かされた事であり、そして社会の常識と扱われているように感じる
「嘘をつく」は唾棄すべき絶対悪であり、特に利己的な理由で行われるそれに対しては特に苛烈な扱いをされ、時には過剰とも言える私的制裁を与えられる
この理由について、人はよくこのように説明するのだ
「『嘘をつく』っていうのは、誰かを騙すって事なんだよ。騙されたら悲しいでしょ?だから嘘はついちゃいけないの。本当の事だけ言えばいいの。」

「嘘をつく」
この定義自体あやふやで、わかりにくいものだと自分は思う
ただ、それを他人に確認すれば、おおよそ「嘘をつくというのは、虚偽の情報を伝えるということ」といった答えを返される
しかし、だ
それを「嘘をつく」の定義とするならば、「嘘をつかない=人を騙さない」は成立しない

人は虚偽の情報を伝えなくとも、誰かを騙すことはできる

なぞなぞを出すとしよう

Q1.これはとある「物質A」に関する記述です。この物質はどのような物質でしょうか?
・物質Aは、地球温暖化の最大の原因となっています。
・物質Aは、工場等の施設から最も多く廃棄物として排出されています。
・物質Aを摂取した事のある人間は、100%の確率で死に至っています。現代の技術ではこれを回避する方法はありません。

Q2.これはとある「物質B」に関する記述です。この物質はどのような物質でしょうか?
・物質Bには、人間が摂取した場合、中毒を引き起こす物質が含まれます。
・物質Bには「悪魔の植物」という異名があります。
・物質Bには販売規制が存在します。
・物質Bは、反社会的勢力の人間にも広く愛好されています。

Q3.これはとある「物質C」に関する記述です。のの物質はどのような物質でしょうか?
・物質Cはコミュニケーションの手段として、社会で広く、頻繁に使用されています。
・物質Cは多くの愛好家が存在します。
・物質Cの歴史は15世紀から続いており、伝統的な物質と言えます。
・物質Cはスーパーやコンビニエンスストア等、多くの場所で手軽に入手することができます。

軽くこんな所といきましょう。
答えはこの記事の末尾に書きます。

この文脈ではなく、何の前触れもなくこの情報を提示されたならば、おそらく多くの人はAとBにはマイナスな印象を、Cには好意的な印象を抱くだろう

しかし、実際最も人間に害を与える物質はCなのだ
あくまで今ここに書いた情報には「なんの偽りもなく」、単純に「事実の一部を書いただけ」だ
人間を騙す方法は、何も「虚偽の情報を伝える」だけではない
「一部の情報のみを伝え」、「印象を操作」すれば、こちらから嘘を伝えずとも、勝手に相手は勘違いするのだ。
そして虚偽の情報を伝えていない以上、事実しか伝えていない以上、例え勘違いを引き起こしたとしてもたいていはこのように外野からは言われるのだ
「勘違いする方が悪い」、と

人間関係において、自分はかつてこれを多用した
己の不利になるような情報は伝えず、あくまで相手にとって「都合のいい人間」と判断されるに至ると予測できる情報のみを伝えていた
そして普段の言動から、「決して嘘はつかない人間」という評価を勝ち取る
こうすればもうこっちのものだ
しかしやはり人によってこの基準は異なるので、若干の印象のゆらぎは発生する
しかし、ずっとこの生き方をしてきた自分には、その程度のゆらぎをほぼ平坦にする方法は既に会得していた

結局のところ、それで人を騙したところで、最終的に罪悪感は避けられなかった
今自分がこうして希死念慮に苛まれるのも、得意でないくせにそれを生きる術の中心として使用してしまった結果、いわば自業自得なのかもしれない




















答え
A1.水
A2.じゃがいも
A3.タバコ

恋と愛

「恋」と「愛」
その違いは何だろうか
想いの強さの違い?いや、そんな人によって変わってくる曖昧な基準で言葉の定義は決められまい
ならば辞書にはどうあるか?
一例を挙げよう
例えばgoo辞書によるとこのような記述がされている

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/71244/meaning/m0u/

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/353/meaning/m0u/


うん、わからん

という訳で自分にとっての恋と愛ついて語ろうと思う
あくまでこれは自分が個人的に勝手に定義付けているだけで世間の認識がこれと同一かと言われればそうでは無いということは先に宣言しておく

まず簡単に
「恋」とは、相手を好きでいたり、相手を想う感情を持っている状態のこと
「愛」とは、相手と共にいたい、相手を幸せにしたいと願ったりする感情を持っている状態のこと

とだけ言うと、だいたい70%の確率で「一緒じゃねーか」とツッコミが入る
だがこれらは明確に違う意味を持つ

恋、究極に言ってしまえば、これは一人でも成立するのだ
愛、これは逆に一人では成立しないのだ


「恋をしている」という状態は、例えば誰かを好きであり、その誰かに強い想いを抱いていたり、強い好意を抱いていたりで、この恋が成就した場合に「幸福」を得られるのは「自分自身」なのだ
そこに相手がどう思っているかは関係なく、成就すればただ単に自分が嬉しい、言ってしまえば「自己完結することのできる感情」なのだ
「その人と一緒にいられるならただ幸せ」という、そこに相手の意思は介在せず、あくまで恋は自分本位の現象なのだ

だが愛はこれとは対照的だ
「愛している」という感情は、「相手に幸せなって貰いたい」や「相手を幸せにしたい」等、あくまで「相手の幸福を願う」ものであり、これの成就は一人では叶わない
それを成就させるには必ず相手の行動に介入する必要が出てくるし、究極的に言ってしまえばここに「自身の幸福」は関係ないのだ
さらに言ってしまえば、「幸福を願っているだけで、別に好意を抱いていたり自分も幸せになりたい等と思う必要」もない、ここにこれらは関係しない
ある意味では「相手が幸福になることが自分の幸福」とも言えなくはないが、その場合でも順序は相手→自分となり、やはりまずは相手を幸せに導く必要があるのだ
「ただこの人を幸せしたい」、ある種自己犠牲の感情とも言える、相手を第一に考えた感情だ

こうして考えているとこの二つは相対するように見えるが、両立は可能だ
「相手に強い好意を抱いており、一緒になりたいと願っており、かつ相手を幸せにして自分も幸せになりたい」という状態ならこの定義で言っても「恋」もしてるし「愛」もしている
もちろん「恋はしてるけど愛はない」も「愛してるけど恋はしてない」も存在しうる

なおこれは寄り道的なものだが、「なら『恋愛』はどうなんだ」と問われれば、「総称的なもの」と解釈している
例えば「彼氏」「彼女」と分類は別れているが、それらはまとめてしまえばどちらも「恋人」であるし、「iPhone」「Android」と存在するが、これらもまとめて言ってしまえば「スマホ」である
「恋愛」とはこの「恋人」や「スマホ」の概念のように、「恋と愛、どちらかあるいは両方の感情を持っている場合の詳細を指定しない総称」というように考えている

恋愛において、相互に恋をしていたり、相互に愛していたり、あるいはその両方をしていない限り、いつかそれには綻びが生じると思う
片方は愛しているが片方は恋しかしていない場合、前者は後者と比較すると最終的に自己犠牲に繋がってしまう可能性が高い
あるいは片方は恋も愛もある、しかしもう片方が愛しかない場合、前者の方が「自分はこんなに幸せにしてもらっているのにどうして自分は相手を幸せにできないんだ」と思い悩んでしまう事もあるかもしれない

やはり人間と人間のやりとりである以上、完璧にはいかないのだ
それとどうやって折り合いをつけていくか、今自分が一番考えなければいけないのは「恋と愛の定義」などではなく、今まさに「綻びが生じている」現実だろう

それに縋りたい訳は

「死」
これは全ての生物がいずれ迎える結末だ
この世に生まれた生命は全て、誕生と同時に死が確定する
死による種の根絶を防ぐ為、生物には生殖という機能がある
ところで、人間は文化的な生き物であると自分は考える
種としての繁栄より、個人の尊厳、築き上げた文化を尊重している
この辺りの話はまた今度にするとして、人間と他の生物の死に対する扱いの差は「死に意味を求めようとする」事ではないだろうか

「あなたにとって『死』とは何か」
そう問うた時、その答えは多岐にわたるだろう
「終末」「絶望」「救済」「無」「希望」
ぱっと思い出せる限りでもこれだけの意見を見かけた事がある
恋人もよく口にする、「死は唯一の救い」だと
彼の中では確かにそうかもしれない
ここでふと思ったのだ
「自分にとって『死』とは何か?」

そもそもこの人生、自分にとって今生きている人生そのものが延長戦のようなものなのだ
8年前、ちょうど中学を卒業する辺り、自分は死への覚悟を完了させた
家庭の不和、学校でのいじめ等、事象的理由ならいくらでも挙げられるだろう
だが何故死のうとした?心理的理由は?それほどまでの覚悟をしたにも関わらず何故延長戦をしようと決意したか?
人間は「Aが起きたからBをする」といったふうにパターン化された行動を取るわけではない
心情変化に多少影響はあれど、それそのものだけが理由とはなり得ないのではないか?
恋人の精神状態は最悪で、その苦しみから逃れる為に彼は自分に死を懇願する上に最もそれが手っ取り早い方法であるのに、何故自分は彼を殺さないのか?

死は、「ありとあらゆる可能性の放棄」ではないだろうか
死の意味を考える時、必ず「生」の存在も考えなければならないのだろうか
生なくして死はあらず、死なくして生はあらず
生と死は必ずセットである
であるならば、「生」の切断たる「死」は、生の意味を考えれば必然的に導き出されるのではないだろうか
ならば自分にとって生とは何か
生とは「可能性の連続」ではないだろうか

例えば、生きている限り「事故に遭う可能性」「災害に巻き込まれる可能性」というのは常に付き纏う事になる
しかし逆に言えば「事故に遭わない可能性」「災害に巻き込まれない可能性」の抽選も同時に行われている
「何事もなく平穏に一日を過ごす」というのは決して当たり前ではなく、ただ運良く「何も無い」を引き続けた結果ではないだろうか
ただこの可能性の存在も決して全てが均等で平等という訳ではなく、ある程度環境にも依存しているだろう
例えば、事故であれば車両等の交通量の多い地域とそうでない地域では可能性は変化する
これらはいわゆる「環境補正」と考えればいいのではないか
TRPGを嗜む人間であれば、ダイスロールへの補正値と考えれば理解がしやすいだろう

ならば逆に死は、「今後一切の抽選を行わないようになる処理」だろう
死んでしまえばあとは焼いて埋めるだけ
事故に遭う可能性も、災害に巻き込まれる可能性も存在しない
仮に死後それらに巻き込まれたとしても、本人はそれをそれとして認識できないだろう
こうして考えてみると、一度は覚悟したはずの死を自分が撤回した理由もわかってきた
当時の自分にとって、受験した高校の環境は「心機一転逆転のチャンス」とも言えるものだったのだ
これまでの人生は最悪なものだったが、似たような認識と触れ合えれば、もしかしたら彼らとは理想的な人間関係を築けるのではないだろうか
おそらく、この時自分に「『あらゆる抽選を回避するメリット』と『これからの逆転の可能性』の比較」が行われ、そして後者の方が利があると判断したのだろう

「あらゆる可能性の放棄」と言うのであれば、当然苦しいイベントに遭遇する可能性も消えるが、逆に言えば嬉しいイベントへの遭遇の可能性も消してしまう
死を選ぶ人間が多数派でない理由は、「人生の中で『バッドイベント』に遭遇した事が少なく、『グッドイベント』『ノーマルイベント』の期待値の方が高い」という人間が大半だからではないだろうか
逆に言えば「『バッドイベント』を踏む可能性が高い」と判断する人間がいたら、それは今後一切の抽選を放棄したくなる気持ちもあるいは仕方ないのかもしれない
TRPGに例えるなら、「ファンブラーはファンブルを多く出すと予め予想ができている」というのに似てるだろう
しかし、この「〇〇を出しやすい」はバイアスかもしれない
ある一定の期間その〇〇が出やすい期間が存在したとして、そこで「なるほど自分は〇〇を出しやすい人間なのか」と判断してしまった場合、その〇〇を踏んだ時だけ過剰反応し、他に対しては特に何も思わずスルーし、体感的にその〇〇が多いと勘違いしてしまうケースもあるのではないか

「生殖は最悪のギャンブル」という言葉を聞いたことがある
ならば死も、病や老衰でなく自死を選んだ場合、「自死は最悪のギャンブル」となり得るのではないだろうか

その可能性のどちらに縋るか、決断ができないのなら、結局はこれまで積んできた結果から判断する事になるのかもしれない

歩兵と斥候

ここ数ヶ月、ずっと考えていた事がある
しかしながら自分は素人であり、専門的な知識を得ようと思い調べてみてもそこに登場する専門用語で理解に躓いてしまう
これから述べるのはあくまで素人が考え付いた感覚的な答えだ
ここに学術的正しさは証明されない、あくまで独断と偏見に満ちた思考だ

発達障害」、この概念を自分が初めて知ったのは5年ほど前だったと記憶している
しかしその定義は曖昧なもので、指向は決められているものの、医師ですら判断基準は人によるという
「生物には、何者にも存在意義はある」
自分はこのように考えていた
そこでたどり着いた結果がこれだ

発達障害は文化の斥候である」

遺伝子の突然変異や個体による違いも、それは「種の存亡」をかけた、言ってしまえば遺伝子の試行錯誤と言えると認識している
例えば人種の違い
人間は元々暑い地域だけに、黒色人種しか存在しなかったと聞く
しかし生息域を広げるにつれ、その人種は多様になった
おそらく最初は突然変異だったのだろう
しかしそれらの個体は「その環境で生き抜けない限り息絶える運命」にある
だが逆に考えればこうとも言えるのだ、「その環境で生きることができるなら、その遺伝子は継承される」、と
生物は進化するものだ
非効率を極力無くし、その環境で最も生きやすい形へと変化する
寒い地域の人類に黒色人種が少なく白色人種や黄色人種が多いのも、おそらく「日光照射量の多い暑い地域程メラニン要求量が少なく、メラニンの生成が少なくとも生きることの出来る環境だった為その遺伝子がメジャー化した」のではないだろうか
ここで自分は考えた
「生物は長期的な種の生存の為に、様々な遺伝子パターンを生成させるのではないだろうか」、と

発達障害に話を戻す
つまるところ、発達障害もこの「遺伝子の試行錯誤の一環」ではないのだろうか
あくまで個人的な感覚だが、一般に「健常者」と言われる人々達は程度の差はあれど、基本的には「保守的」に見えるのだ
基本的には変化を恐れ、現状維持を望み、もし何か新しいものができた時、それを他の人間がやっている、つまり「安全が確認されたら」それに乗り始める
しかし、だ、そのような人間ばかりでは、「最初の一人」が出なければ、人間はいつまで経っても同じ事を繰り返すばかりではないだろうか
だが現代はこれ程までに文明が進歩した
それを発明する天才だけではここまでの進歩は無かっただろう
どんなものも、「誕生」だけでは拡散発展には及ばず、それを「受け入れる」最初の一人となりうる人物が必要ではないのか
自分はこの「最初の一人」として必要とされたのが現代では発達障害と呼ばれる人間なのではないかと思ったのだ
例えばADHDでは「注意力の欠陥、じっとしていることが出来ない」等の症状が挙げられるが、これは逆に考えると「他の人がやらないような事をやり、それをしても大丈夫かどうかが証明される」「『じっとしている状態』と『動き続けている状態』ではどちらの生存の確率が高いのか」といったふうに、前者では「安全性の証明」、後者では「種の可能性の判断」として機能していたのではないだろうか
だからこそ、最初の一人たる、文明進歩の為の最初の一人となる、「文化の斥候」と呼べるのではないかと自分は考えたのだ

ならばどうして、現代ではここまでして発達障害の人間の肩身が狭いのか?ここまで生きにくさを抱えているのか?
これは単純に、「数の問題」と言える気がするのだ
生物は多くの場合「多数派が勝つ」ものと認識している
「声の大きさ」というのも関係する要素ではあると思うが、結局それも「味方を増やす能力」、結局は「多数派にのし上がる能力」の一つではないだろうか
そして社会もまた、「多数派」によって決定される
そしていずれその「多数派」は「普通」という概念であると認識されるようになる
しかしだ、人間は生き物であり、絶対的普遍性など「心臓から血液を循環してる」ぐらいしか存在しないだろう
結局のところ、多数派により多数派の為の社会が構築され、多数派が「健常者」と呼ばれ、それとは少し違う性質を持った者が「発達障害」等の名目で「障害者」というふうに呼ばれるようになったのだろう
これらを兵種に例えるとするならば、健常者は「歩兵」と言えるのではないだろうか
数としては圧倒的に多く、軍を構築するメインの兵種は歩兵であるというのも、社会における健常者の扱いとさほど変わらないだろう
しかしながら兵=歩兵ではない
そこには斥候も含まれるのだ、全て合わせて「兵」なのだ

現代の社会は「歩兵によって構築され、歩兵の為のシステムが主流になっている」と感じる
文明も相当に発展しており、産業革命のような劇的な変化はもはや無く、「停滞の時代」とも呼べるのではないだろうか
そこにもはや斥候の出番はほぼ存在しない
そして歩兵は斥候の存在を忘れていく
歩兵こそ兵の普遍的存在であり、異なる分子、斥候は異常なものである、この平穏を脅かすものであると排除しにかかってしまう


この社会は、多数派の為に作られている
少数派の為には作られていない、だからこそ、致命的なまでの生きにくさが発生してしまう
これはあくまで自分の素人判断だ、「こんなバカな話あるわけなない」等と思ったなら、これを真に受ける必要はない