シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

歩兵と斥候

ここ数ヶ月、ずっと考えていた事がある
しかしながら自分は素人であり、専門的な知識を得ようと思い調べてみてもそこに登場する専門用語で理解に躓いてしまう
これから述べるのはあくまで素人が考え付いた感覚的な答えだ
ここに学術的正しさは証明されない、あくまで独断と偏見に満ちた思考だ

発達障害」、この概念を自分が初めて知ったのは5年ほど前だったと記憶している
しかしその定義は曖昧なもので、指向は決められているものの、医師ですら判断基準は人によるという
「生物には、何者にも存在意義はある」
自分はこのように考えていた
そこでたどり着いた結果がこれだ

発達障害は文化の斥候である」

遺伝子の突然変異や個体による違いも、それは「種の存亡」をかけた、言ってしまえば遺伝子の試行錯誤と言えると認識している
例えば人種の違い
人間は元々暑い地域だけに、黒色人種しか存在しなかったと聞く
しかし生息域を広げるにつれ、その人種は多様になった
おそらく最初は突然変異だったのだろう
しかしそれらの個体は「その環境で生き抜けない限り息絶える運命」にある
だが逆に考えればこうとも言えるのだ、「その環境で生きることができるなら、その遺伝子は継承される」、と
生物は進化するものだ
非効率を極力無くし、その環境で最も生きやすい形へと変化する
寒い地域の人類に黒色人種が少なく白色人種や黄色人種が多いのも、おそらく「日光照射量の多い暑い地域程メラニン要求量が少なく、メラニンの生成が少なくとも生きることの出来る環境だった為その遺伝子がメジャー化した」のではないだろうか
ここで自分は考えた
「生物は長期的な種の生存の為に、様々な遺伝子パターンを生成させるのではないだろうか」、と

発達障害に話を戻す
つまるところ、発達障害もこの「遺伝子の試行錯誤の一環」ではないのだろうか
あくまで個人的な感覚だが、一般に「健常者」と言われる人々達は程度の差はあれど、基本的には「保守的」に見えるのだ
基本的には変化を恐れ、現状維持を望み、もし何か新しいものができた時、それを他の人間がやっている、つまり「安全が確認されたら」それに乗り始める
しかし、だ、そのような人間ばかりでは、「最初の一人」が出なければ、人間はいつまで経っても同じ事を繰り返すばかりではないだろうか
だが現代はこれ程までに文明が進歩した
それを発明する天才だけではここまでの進歩は無かっただろう
どんなものも、「誕生」だけでは拡散発展には及ばず、それを「受け入れる」最初の一人となりうる人物が必要ではないのか
自分はこの「最初の一人」として必要とされたのが現代では発達障害と呼ばれる人間なのではないかと思ったのだ
例えばADHDでは「注意力の欠陥、じっとしていることが出来ない」等の症状が挙げられるが、これは逆に考えると「他の人がやらないような事をやり、それをしても大丈夫かどうかが証明される」「『じっとしている状態』と『動き続けている状態』ではどちらの生存の確率が高いのか」といったふうに、前者では「安全性の証明」、後者では「種の可能性の判断」として機能していたのではないだろうか
だからこそ、最初の一人たる、文明進歩の為の最初の一人となる、「文化の斥候」と呼べるのではないかと自分は考えたのだ

ならばどうして、現代ではここまでして発達障害の人間の肩身が狭いのか?ここまで生きにくさを抱えているのか?
これは単純に、「数の問題」と言える気がするのだ
生物は多くの場合「多数派が勝つ」ものと認識している
「声の大きさ」というのも関係する要素ではあると思うが、結局それも「味方を増やす能力」、結局は「多数派にのし上がる能力」の一つではないだろうか
そして社会もまた、「多数派」によって決定される
そしていずれその「多数派」は「普通」という概念であると認識されるようになる
しかしだ、人間は生き物であり、絶対的普遍性など「心臓から血液を循環してる」ぐらいしか存在しないだろう
結局のところ、多数派により多数派の為の社会が構築され、多数派が「健常者」と呼ばれ、それとは少し違う性質を持った者が「発達障害」等の名目で「障害者」というふうに呼ばれるようになったのだろう
これらを兵種に例えるとするならば、健常者は「歩兵」と言えるのではないだろうか
数としては圧倒的に多く、軍を構築するメインの兵種は歩兵であるというのも、社会における健常者の扱いとさほど変わらないだろう
しかしながら兵=歩兵ではない
そこには斥候も含まれるのだ、全て合わせて「兵」なのだ

現代の社会は「歩兵によって構築され、歩兵の為のシステムが主流になっている」と感じる
文明も相当に発展しており、産業革命のような劇的な変化はもはや無く、「停滞の時代」とも呼べるのではないだろうか
そこにもはや斥候の出番はほぼ存在しない
そして歩兵は斥候の存在を忘れていく
歩兵こそ兵の普遍的存在であり、異なる分子、斥候は異常なものである、この平穏を脅かすものであると排除しにかかってしまう


この社会は、多数派の為に作られている
少数派の為には作られていない、だからこそ、致命的なまでの生きにくさが発生してしまう
これはあくまで自分の素人判断だ、「こんなバカな話あるわけなない」等と思ったなら、これを真に受ける必要はない