シナプスのゴミ箱

このブログの内容はあくまで個人的所感であり、世間一般のそれとは異なる場合がございます

それに縋りたい訳は

「死」
これは全ての生物がいずれ迎える結末だ
この世に生まれた生命は全て、誕生と同時に死が確定する
死による種の根絶を防ぐ為、生物には生殖という機能がある
ところで、人間は文化的な生き物であると自分は考える
種としての繁栄より、個人の尊厳、築き上げた文化を尊重している
この辺りの話はまた今度にするとして、人間と他の生物の死に対する扱いの差は「死に意味を求めようとする」事ではないだろうか

「あなたにとって『死』とは何か」
そう問うた時、その答えは多岐にわたるだろう
「終末」「絶望」「救済」「無」「希望」
ぱっと思い出せる限りでもこれだけの意見を見かけた事がある
恋人もよく口にする、「死は唯一の救い」だと
彼の中では確かにそうかもしれない
ここでふと思ったのだ
「自分にとって『死』とは何か?」

そもそもこの人生、自分にとって今生きている人生そのものが延長戦のようなものなのだ
8年前、ちょうど中学を卒業する辺り、自分は死への覚悟を完了させた
家庭の不和、学校でのいじめ等、事象的理由ならいくらでも挙げられるだろう
だが何故死のうとした?心理的理由は?それほどまでの覚悟をしたにも関わらず何故延長戦をしようと決意したか?
人間は「Aが起きたからBをする」といったふうにパターン化された行動を取るわけではない
心情変化に多少影響はあれど、それそのものだけが理由とはなり得ないのではないか?
恋人の精神状態は最悪で、その苦しみから逃れる為に彼は自分に死を懇願する上に最もそれが手っ取り早い方法であるのに、何故自分は彼を殺さないのか?

死は、「ありとあらゆる可能性の放棄」ではないだろうか
死の意味を考える時、必ず「生」の存在も考えなければならないのだろうか
生なくして死はあらず、死なくして生はあらず
生と死は必ずセットである
であるならば、「生」の切断たる「死」は、生の意味を考えれば必然的に導き出されるのではないだろうか
ならば自分にとって生とは何か
生とは「可能性の連続」ではないだろうか

例えば、生きている限り「事故に遭う可能性」「災害に巻き込まれる可能性」というのは常に付き纏う事になる
しかし逆に言えば「事故に遭わない可能性」「災害に巻き込まれない可能性」の抽選も同時に行われている
「何事もなく平穏に一日を過ごす」というのは決して当たり前ではなく、ただ運良く「何も無い」を引き続けた結果ではないだろうか
ただこの可能性の存在も決して全てが均等で平等という訳ではなく、ある程度環境にも依存しているだろう
例えば、事故であれば車両等の交通量の多い地域とそうでない地域では可能性は変化する
これらはいわゆる「環境補正」と考えればいいのではないか
TRPGを嗜む人間であれば、ダイスロールへの補正値と考えれば理解がしやすいだろう

ならば逆に死は、「今後一切の抽選を行わないようになる処理」だろう
死んでしまえばあとは焼いて埋めるだけ
事故に遭う可能性も、災害に巻き込まれる可能性も存在しない
仮に死後それらに巻き込まれたとしても、本人はそれをそれとして認識できないだろう
こうして考えてみると、一度は覚悟したはずの死を自分が撤回した理由もわかってきた
当時の自分にとって、受験した高校の環境は「心機一転逆転のチャンス」とも言えるものだったのだ
これまでの人生は最悪なものだったが、似たような認識と触れ合えれば、もしかしたら彼らとは理想的な人間関係を築けるのではないだろうか
おそらく、この時自分に「『あらゆる抽選を回避するメリット』と『これからの逆転の可能性』の比較」が行われ、そして後者の方が利があると判断したのだろう

「あらゆる可能性の放棄」と言うのであれば、当然苦しいイベントに遭遇する可能性も消えるが、逆に言えば嬉しいイベントへの遭遇の可能性も消してしまう
死を選ぶ人間が多数派でない理由は、「人生の中で『バッドイベント』に遭遇した事が少なく、『グッドイベント』『ノーマルイベント』の期待値の方が高い」という人間が大半だからではないだろうか
逆に言えば「『バッドイベント』を踏む可能性が高い」と判断する人間がいたら、それは今後一切の抽選を放棄したくなる気持ちもあるいは仕方ないのかもしれない
TRPGに例えるなら、「ファンブラーはファンブルを多く出すと予め予想ができている」というのに似てるだろう
しかし、この「〇〇を出しやすい」はバイアスかもしれない
ある一定の期間その〇〇が出やすい期間が存在したとして、そこで「なるほど自分は〇〇を出しやすい人間なのか」と判断してしまった場合、その〇〇を踏んだ時だけ過剰反応し、他に対しては特に何も思わずスルーし、体感的にその〇〇が多いと勘違いしてしまうケースもあるのではないか

「生殖は最悪のギャンブル」という言葉を聞いたことがある
ならば死も、病や老衰でなく自死を選んだ場合、「自死は最悪のギャンブル」となり得るのではないだろうか

その可能性のどちらに縋るか、決断ができないのなら、結局はこれまで積んできた結果から判断する事になるのかもしれない